ボスがごくたまにつぶやきます.業務と関係ない趣味のことがほとんどですが,どうぞご笑読ください!
- タヌキ八バケ(2013年10月10日)
- 川の下にも魚?(2013年10月24日)
<川の下にも魚?>
「川の下には川があり、川の横にも川がある。そうでなければ渓流のような粗い砂や石ころだらけの場所では水はすぐに吸い込まれてしまう」と書いたのは40年近くも前に亡くなった福島の釣り人、阿部武さんだが、果たして本当に川の下に川はあるのだろうか?
福島市から栗子峠を越えて米沢へ抜ける国道13号線沿いに小川という渓流がある。この川の支流に大滝川という小渓流があって、そこでの事。
国道13号線沿いの旧道にすでに廃村になった大滝宿があって、旧道の橋を渡って、伸び放題の叢の中に、屋根は落ち、壁も抜けて朽ち果てた家々や礎石だけが点々と残る廃村を半ばまで進むと、右から(川上から見て右)大滝川が合流している。
合流点近くは普段は水量もあり、ヤマメの15cmぐらいのがよく釣れたし、増水すれば尺モノが出ることがあった。
分教場跡の前(現在は基礎石しかない)を川沿いに奥へ進むと、落差1.5mほどの落ち込みがあり、その脇の杣道を登ると片側が杉の植林地で、向う岸は崖になっており、川幅はそれまでの半分ほどと狭くなって、水深が急に深くなる。
あたりは鬱蒼として暗く、一見すると底石の大きなのが沢山沈んでいて、とてもいいポイントに見えるが、何十回通ってもそこではカジカ1匹釣れた事はないから、なにか魚にとって棲みたくない要因が存在する場所なのだろう。
杣道は杉の木立の水際にあり、それをたどっていくと、川は左に曲がっており、そこから50mほどは両岸がオーバーハング状に切り立ったゴーロになっていて、その隙間からゴーロの奥に高さ10mほどの堰堤が見えるのだが、その堰堤にたどり着くまでは腰上ほどの水深があり、ほぼ一日中日陰で、蒼く清冽な水が流れている。股下までのヒップウェーダーではとても間に合わない。
雪のない時期なら対岸の崖に取り付いて、その上の雑木林まで登れれば、堰堤まではたどり着けるが、万一滑落したら命の保証はない。
仕方がないので気温の低い時期は、Sの字を逆から描くような、かなり急傾斜の林道を堰堤の上まで登って、そこからロープを降ろして、滝壺の端にあるわずかな砂地めがけて20mほど懸垂下降をする。
気温が上がって、濡れた服が自然乾燥するまで耐えていられる真夏の季節には、そのゴーロを半分泳ぐような、半分水中を歩くような状態で進むことが出来るので、頑張って流されずに堰堤までたどりつければ、滝壺ではいつも尺クラスのイワナが迎えてくれた。
ただ、誰が入れるのか、その堰堤下の滝壺には、いつもかなり大きく枝を張った木が1本必ず沈んでいる。釣り終わりにこの木を引きずり上げておいても、次回にはまた別の木が沈んでいる。こうなると人為的に入れられたと考えるのが妥当だろう。
後日、この蛮行は近くに住む釣り好きが、この場所を独り占めするために、定期的に投入していたと判明。また彼は、それでも入渓する釣り人には、監視員を装って入漁券を持っている釣り人に「ここは永久禁漁になっている」と嘘を言って、釣り人を妨害し、遠ざけようとしていた事も判明した。
滝壺に投入された木にもめげず仕掛けを投入し、魚がかかればヌルヌルした魚体のおかげで、枝の間からそのまま抜き上げることが出来るが、魚が針を口に含んでくれないと、必ず枝にひっかかってしまうので、1投ごとにハリスを交換しなければならない。
似たような妨害行為は他にもあり、秋田県の真昼岳近くの川口川に出漁した時も、入漁券を提示したにもかかわらず、監視員もどきに入渓を拒まれたことがあるが、この時はすぐに券を購入した店まで戻って事情を説明したところ、店の主人が「あのヤロウ、またやりやがって!」とバイクですっ飛んで行って解決してくれた。その後、監視員もどきの彼にどういう処分が下されたのかは不明だが、あの勢いだとゲンコツの一つや二つは食らったのではないだろうか。
話を大滝川に戻すと、いつもならその堰堤で竿を収めて、本流に戻って釣り登るのだが、何回目かの釣行のあるとき、堰堤の上はどうなっているのだろうと思って、滝壺に降りずに堰堤の上に降りてみた。すると堰堤は上いっぱいまで砂に埋もれて、背の低い灌木や草が生えており、その中を平たい、かすれたような水がちょろちょろと流れていて、20mほど上流で水がなくなっている。堰堤の下を流れる水の量とは、てんで比較にならない量だ。
そこでハタと冒頭の阿部氏の言葉に思い当たった。堰堤の下に水の涌き出し穴があるに違いない!堰堤上の細流はそこまで伏流していた渓の水が堰堤のすぐ手前で地下からオーバーフローしているのだけなのだ。
ふと見ると5cmぐらいの小さなヤマメがわずかな水流の中を泳いでいる。よくみると他にも5、6匹のヤマメの稚魚がいる。私はその魚をよく見ようと水辺に近づいてしゃがみ込むとチビヤマメたちは人影に驚いて、一斉に上流へ走り出した。
上流といっても残った水面は20m足らずで消えている。一体どこに逃げるのだろうと目で追うと、細流の消えるあたりで突然見えなくなった。おや?と思って薮をくぐっていくと、石ころの間に握りこぶしほどの穴がいくつかあり、そこから水が吹き出している。その穴へそっと近づくと、穴からまた一匹、ヤマメが飛び出してきて、一回り泳ぐとスッとまた穴の中に飛び込んで行き、しばらく待ってもそれきり出て来なくなった。
私は手近に落ちていた枯れ枝を拾って、穴の中に差し込んでみたが、50cmほどの枝はどこにも当たることなく、入って行ってしまう。かきまわしてみたが中はかなり広くて深いようだ。そんな穴があちこちに開いていて、ぽこぽこと地下から水を吹きあげている。
一体この穴はどこへつながっているのだろう、出口があるからには入口もあるに違いないと、枯れ沢を登って行くと、200mほど上流でまた突然浅い水面が現れ、川原には吹き出し口と同じような大きさのたくさんの穴が開いていて、その穴へ水が音もなく流れ込んで行く。
堰堤下の滝壺の水量は表面から落ちる水だけでなく、途中に開けられた四角い2つの水抜き穴からも吹き出していたが、ほとんどは堰堤を埋めた土砂をくぐって、堰堤のコンクリートの下を通って沸き出しているらしい。
ますます好奇心をそそられて、竿をしまったまま、さらに上流へと登っていくと、水量は少しずつ増えて、そのうち下の分教場跡のあたりを流れている水量と変わらなくなり、走る魚影も次第に大きくなってきた。
さらに登ると、堰堤から1.5kmほど上流で大滝川は二股に分かれ、左からは本流とほぼ同等の水量の不動沢が合流していた。
阿部さんは鉄砲水などで沢が埋まっても、魚は流されたりせず、この地下の川へ避難し、次の大雨で溜まった土砂が流されて、川底に再び穴が現れると、そこから出て来るので、土砂で埋まった渓流の魚は必ず回復するという。
またこの地下への穴のないところは、どんなに溪相がよくても緊急避難場所のない所なので魚は居着かないと書いているが、確かに地下に通じる穴は存在するのだ。
この大滝川の場合、伏流はわずか200mほどだったが、これが何キロも続いている場所だってあるに違いないし、地下水脈は縦横無尽につながっていて、各地で湧き水や井戸として地表に現れている。現に栃木県の蛇尾川(さびがわ)は高速道路から見える限り、石ころの川原ばかりで流れは見えないが、上流にも下流にも水は流れているし、新潟県魚野川に大和PA付近で合流する水無川も、4Kmほど上流の堂島新田あたりから下流の魚野川合流点まではまったく水がない。
私も台風などで泥が流入して絶好のポイントだったところが浅瀬になってしまった事例をたくさん見て来ているが、次の年の雪どけの急流が収まると、また同じポイントが復活し、以前にも増して大型の魚が増えていることを経験しているが、なぜそこに魚が集まるのか、また住みよさそうに見えても、全く魚の棲み着かないポイントがあるのかは謎だった。
なるほど!と一人合点し、今更ながらに阿部さんの卓越した、鋭く自然を観る釣り人としての観察眼と実地にそれを体験、確認したことに敬服。
合流点付近で数匹のイワナを釣って、冒頭の「川の下には川がある、川の横にも川がある」と書かれた阿部武さんの本の一節を弁当と一緒に噛み締めながら、なんと我々は物事の表面しか見ていないのかと、当時まだ渓流釣り初心者だった私は、妙に感じ入った、記憶に残る釣行だった。
以後、郷里福島を初めとして、各地で阿部さんの本に書かれた釣法や知見を、幾度も実際に試す場面に遭遇し、その信憑性を確かめながら今日に至っているが、いまだに観察眼も釣果も阿部さんの足元にも及ばずに、還暦も大分過ぎてしまった。
参考:前述の水無川の最源流部には滝ノ沢、デトノアイソメ、東不動沢、西不動沢の4本の渓流が1ヶ所で合流する地点があるが、この合流点付近(国土地理院1/25000地形図参照)半径およそ300mほどの部分には等高線はあるが川が記入されていないし、ガレで埋まった薄いグレーにも染め分けていないので、この合流点は完全に地下にあるらしい。とても珍しい地形である。
<山本素石氏の随筆「タヌキの八化け」に触発されて>
もう20年以上も前だろうか。同行したタケシ君が、まだ駒沢大学の学生だった頃、私も奇妙な経験をした。
その頃私は、新潟の姫川近辺の小渓流を次々と探釣していて、気がついたら富山県に入っていた。
新潟県との境目には境川という小渓流があるが、その先の朝日ICを降りるとすぐに小川という、名前には似つかわしくない、水量の豊富な川がある。
河口から少し上流で舟川と分流し、舟川の方が水量も川幅も大きいので、そちらが本流かと見間違えそうだが、河口での名前が「小川」であるからして、こちらが本流なのだろう。上流には小川温泉という古くからの名湯もあって、そこまでは道路も整備されている。
小川温泉の少し下流に「朝日小川ダム」という人造湖があり、ダムを渡った向こう側に相ノ叉トンネルという、照明もないトンネルがある。その上流1Kmほどの左側から小沢が落ちてくるあたりに、数軒の農家があったが、平成20年版の地形図には記載されていないので、すでに廃村になってしまったのだろうか。
そのあたりで谷は少し開けて、ネコの額ほどの水田もあり、私たちが行った秋の初めには柿が色づいていて、沢からの水を利用した水車がゆっくりと回っていたが、庭先には人影も見当たらず、本当に静かな山里であった。
朝からいくつかの川を回って、もう日暮れ近くにこの山里に着いたので、落石や不意の出水に備えて、私たちのワゴン車を少し道幅の膨らんだ場所に止めて、その晩はそこで車中泊することとし、夕暮れの山里の景色を眺めながら、街で買い込んだビールで乾杯し、コンビニ弁当を食べ、地酒を飲みながら地図を眺めて、明日早朝からの豊漁を期待して、21:00頃に寝袋にもぐりこんだ。
道路脇の山側はコンクリート製の3mほどの高さの擁壁になっており、その上は雑木林。道路幅は7mほどもあったろうか。砂防ダム工事の大型トラックや重機が難なくすれ違えるほど広く取ってある。
谷側は同じ様に10mほどの高さのコンクリートの擁壁になっていて、くだんの相ノ叉の川原へ落ちている。
雪深い富山県であるから、若者たちは冬場の通勤にも楽な町へ出ていったのか、老人ばかりの集落とみえて、私たちが車を止めてから、食事を済ませて寝付くまでの間に通った車は1台もなかった。
私は生来寝付きがよく、「おやすみ」と言った次の瞬間には高いびきで寝ているとか、子供の頃には箸や茶碗を持ったまま寝ていた、というウワサがあるぐらい寝付きがいいらしい。
「らしい」というのは、翌朝目覚めるまでまったく記憶がないぐらい熟睡するので、枕に頭をつけて一眠りすると、もう朝になったような感じで、本人はあまり寝た気がしないのである。
しかし逆に目覚めもよく、一声かけられたり、何か異常があればパッと目が醒めて、すぐにエンジンが全開になるという取り柄もあった。
その夜も買い込んできた土地の地酒「奴奈姫」4合をたっぷりきこしめしたので、その眠り方は「墜落睡眠」とも言える早さだったと寝付きのあまり良くないタケシ君が後に恨みがましく言っていた。
ところで、この奴奈姫(ぬなひめ)という酒は「不見月(つきみず)の池」という名酒でも有名な猪又酒造の酒だが、そんな知識もなく、店先で目についた純米吟醸を奮発して、さほどの期待もなく、なんの趣もない紙コップで飲ったのだが、これが旨い!
あとで同酒蔵の「不見月の池」と較べてみたが、口当たりの良さ、まろやかさ、のどごし、コク、特に奴奈姫独特のクセというか、個性が何ともたまらない。
元来私は個性の感じられないものはどんなに有名でも、あまりいいと感じないというヘソ曲りなところがある。きょうび流行の「端麗辛口」なんてやつは論外で、個性を感じられるようなシロモノには、ごくごく稀にしかお目にかかれなくなってしまった気がする。その点、この奴奈姫は主義主張が明快で、なにより説得力がある。
ついでに、そういう意味で言うと私が絶賛するのは青森県下北半島の酒蔵、関の井酒造の「北勇(きたいさみ)」という酒だ。年間生産量は1.8L瓶で5000本(当時)たらず。「漁師が無事に帰港できて、『今日も1日いい日だった』と思いながら飲んでくれれば、それが最高です」と言う藏の当主の言は、北の海の厳しさを熟知した生え抜きの津軽人独特の重みを感じるが、この世知辛いご時勢に少々浮世離れしている感がある。
ただし、この「北勇」、値段は滅法高い。1.8L入りが青森檜の香りのする木箱に入って、当時1本7000円もしたから、そうおいそれとは飲めないし、下北半島を抜けて青森県中央部に行くと、もうどこの酒屋にも全く見当たらない。
これは関の井酒造自体に、量産して儲けようと言う気がないこともあるが、最大の原因は、青森県内に秀逸な酒蔵が多過ぎるせいもあるのではないかと思っている。
青森県はリンゴばかり作っていると思われがちだが、岩木山と背後の白神山地や八甲田といった山々からの伏流水が非常に良質で、稲作も盛んである。最近は田舎館村の「田んぼアート」という、1枚の田んぼを1枚の画用紙に見立てて、稲も穂も色の違う数種類の稲を植えて巨大な絵を描くというイベントをTVのニュースなどでご覧になった向きもおありかと思うし、夏場、青森空港で販売されている「嶽のキミ」というブランドトウモロコシや、雪待ち6片ニンニク、つがりあんメロン、さらにスイカも特産で、しかもメロンやスイカは夏の初めから10月終わりまでと収穫期も長い。
また山菜はもちろん、春に岩木山麓で採れる無農薬アスパラガスも絶品である。そのうえ畜産では日本を代表する和牛の種牛「第一花国」(現在は3代目にあたる第三花国)があり、その精液は1ccで10,000円もするという銘牛で、宮崎牛、口蹄疫の厄災の折りには、その精液が青森県畜産試験場の好意で宮崎に空輸されて、宮崎牛復活の一助を担ったそうだ。
また海産物にしても、青森県自体が太平洋と日本海と津軽海峡とで三方を海に囲まれるという地の利から、当然、魚介類も絶品揃い。と聞けばそれらの食材を食するために造られた酒が、いいかげんであるわけもない。
偏屈人を自認する私は、「安東水軍」や「豊杯」を推すが、東京あたりの酒通の間で有名な「田酒」、「白神のしずく」などもまた青森の酒である。
昨今、巷では「大間のマグロ」が非常な高値で取引されていると聞くが、太平洋から餌のイカを追って、潮流の速い津軽海峡に入ったマグロのうちで、200Kg超えで1本釣りされたクロマグロを「大間のマグロ」というそうだ。
だが太平洋を回遊するすべてのクロマグロが津軽海峡で捕獲されるはずもなく、大半は北海道沖へ直進してアリューシャン列島目指すグループと、津軽海峡を抜けて、日本海を南下して、スルメイカの一大漁場である、佐渡島の北側海域に向かって行くグループに分かれる。
つまり、津軽海峡を越えてからの方が脂も乗って、マグロは大型化するのである。それなのに津軽海峡を抜けてから日本海で捕獲されたマグロたちの値段は、一気に下落するのだから、人間の思い込みほど恐ろしいものはない。
私は仕事の都合で、秋田県に近い鰺ヶ沢町で、その日鯵ヶ沢沖で捕れたばかりのクロマグロを、鯵ヶ沢漁港と道1本隔てただけの「水天閣」という料理屋で自他ともに認める食通の一戸一剛氏と、これを食する機会に何度か恵まれたが、えもいわれぬほどの美味であったし、値段も驚くほど安かった。
話を関の井に戻せば、この酒も下北半島に釣りに行った時の温泉帰りに、近くの酒屋というよりも、昔のよろず屋という風情の小店で、この酒以外には地酒は置いてなかったので止むなく買い込んで、野営のテントの中で飲んだのだが、あまりの旨さに、3人で1升瓶を20分ほどで空けてしまい、また車に飛び乗って片道28Kmも走って、ようやく店じまいする前に間に合って、もう1本買い足してきたという「スグレモノ」である。
今考えれば無謀極まりないことで、いくら最果ての下北半島とはいえ、一升瓶を空けたあとで街路灯も整備されていない海岸の道を、往復60Km近くも運転していったのだから、検問にでもあったら罰金ぐらいでは済まなかっただろう。
若気の至りとはいえ、無謀にも程があるというものだ。
ちなみに、青森県ではいつ、どこで飲酒運転の検問を実施するか、ラジオや地元TV局などで広報する。「だから飲んで運転しないでね」というつもりなのかも知れないが、なんともおおらかな土地柄に最初は面くらってしまった。
なんだか話が大幅に脇道にそれてしまったが、話を相ノ叉谷の夜に戻そう。
天気予報ではゆっくりと下り坂ではあるが、雨が降るのは数日後ということで、就寝前に小用を足しに車外に出たときは、雲一つない満天の星空で山の冷気が下半身に沁みた。
寝入ってからどれほどの時間が経過したかはわからないが、突然ゴー!っという大音響と共に重さ1トンもあるワゴン車が上下左右に激しく揺すられて、私も傍らのタケシ君も「ワッ!」と叫んで思わず飛び起きた。すると今度は車の屋根に木が倒れてきたような、何かが激しくぶつかる音と衝撃が伝わってきたので、車外の様子をみようと私はあわてて車のヘッドライトを灯けに運転席へ転がり込んだ。
この時点では、私はてっきりかなり大きな地震が発生し、上の雑木林の木が倒れてきたと思っていた。元々糸魚川、姫川付近は中央構造線という国内最大の断層があるのだから、いつ地震が発生してもおかしくはない。そんなことを寝る前に大学で地理学を専攻しているタケシ君と話したことが、頭に残っていたのかも知れない。
ヘッドライトが闇を裂いて、寝起きの眼にまぶしく前方を照らすと同時に、激しい揺れも大きな音もふっつりと止まった。考えてみれば地震にしては余韻のない、妙な終わり方であった。しかもヘッドライトに照らされた道路には、何の痕跡もない。
靴を突っかけて懐中電灯を持ち、車外に出てみたが、数軒の農家にも明りが点く気配はないし、人声もしない。改めて車の周囲を丹念に照らして調べてみたが、動くものどころか小枝1本、石ころひとつ落ちていないし、屋根に当たったはずの木の枝も見当たらず、空にはさらに輝きを増した満天の星がきらめいている。キツネにつままれた気分、というのはこんな状態を言うのであろうか。
一人だけなら寝ぼけたということもあるだろうが、二人ともが同じ出来事を経験したとなると夢ではあるまい。
夜明け前の漆黒の闇の中、しばらく二人で道路に立ちつくして話し合ったが、結局狐狸妖怪、なかんずくタヌキの仕業に違いないと納得するしかない、実に奇妙な体験であった。
2013.10.10